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TSUMAGOI
嬬恋村について
嬬恋村は群馬県の西北部に位置しています。
都心から3時間程の好アクセスで、軽井沢や草津温泉がすぐ近く!
春になると高原の花々が可憐に咲き、夏は新緑が深まり涼やかな風に包まれ
秋の紅葉は紅、黄色、黄金色のグラデーション、冬には一面の銀世界となります。
豊富な源泉、多様な泉質を誇る温泉に浸かり、四季折々の雄大な自然をお楽しみください。
目次

HISTORY
歴史
嬬恋村の歴史
夏から秋にかけて収穫されるキャベツ(夏秋キャベツ)の出荷量が日本一で有名な嬬恋村。
そんな嬬恋村がキャベツ出荷量日本一の村に至るまでには、ヤマトタケルの伝説や浅間山の大噴火など、さまざまな歴史がある。
今からおよそ20万年前
嬬恋村の大地は巨大な湖の中にあったとされる。
紀元前1500年ごろ
嬬恋村今井地区の東平遺跡にて、縄文人が定住していたことを示す縄文土器が大量に出土する。
西暦110年(景行天皇40年)ごろ
東夷の途上で海が荒れ、その元凶といわれた海神(わたつみ)の怒りを鎮めるために妻であるオトタチバナヒメが海に身を投げたと言われる古代の英雄ヤマトタケルノミコトが、四阿山(吾妻山「あずまやさん」)から眼下に広がる雲海が荒れる海を思い出し、亡き妻を偲んで「あづまはや(我妻よ恋しい)」と嘆いたとされ、吾妻郡嬬恋村(あがつまぐんつまごいむら)といった地名となった、とされる伝説が生まれる。
西暦650年ごろ
湯治場として、鹿沢温泉が開湯。地蔵峠や鳥居峠を越えて信州方面からの来訪で賑わう。
西暦1193年(建久4年)
村内で軍事演習や武士たちの娯楽としてイノシシやシカなどを捕らえる巻狩を行うなど、複数の伝説を残る。
①干俣諏訪神社
境内で蹴鞠をしたという伝説が残り「鞠の宮」と呼ばれるようになった。
②大前の地名
『上野国郡村誌』において、建久4年(西暦1193年)に頼朝が家来にこの地に厩を置かせたことから「御厩村」と呼ばれ、後に「大前」と改称されたと記されている。
③的岩
源頼朝が家来と弓を引いて的として狙ったという伝説のある「的岩」がある。またその伝説では、異形の大男が現れ、握り飯で岩を射抜いたと伝えられ、実際に的岩の中央部には握り飯を投げた窪みがあるとされる。
西暦1662年(寛文2年)
当時、信州をおさめていた戦国武将-真田家初代幸隆の支援を受け、大笹に関所が建設される。信州から上州を結ぶ信州街道の要所となった大笹は、江戸時代に宿場町として栄え『東海道中膝栗毛』の著者である十返舎一九もたびたび訪れたといわれる。信州街道は大笹街道とも呼ばれるが、「油街道」ともいわれ、松明(たいまつ)の火の燃料だった「菜種油」を江戸へ運ぶ馬や人が行き交ったとされる。
西暦1783年(天明3年)
浅間山の大噴火が発生し、その噴煙は成層圏を覆い、関東一帯に大飢餓、北半球全体に冷害をもたらし、1789年から始まるフランス革命の一因ともいわれる。
特に被害の大きかった鎌原村では、家族の離散により絶望的だった局面を打破するべく、家族の再結成(奥様を亡くした旦那様と旦那様を亡くした奥様を新な家族として再始動、など)により復興を図った。当時は高台にあったとされる鎌原観音堂では、当時は50段あったとされる石段が噴火により35段埋没し、その中には老婆とその老婆を背負う若い女性の遺体が発見され、実際に起きた悲劇を物語る資料などが嬬恋郷土資料館に展示されている。被害は、吾妻川から利根川、江戸川を流れ下り、遠く太平洋沖や東京湾までに及ぶ。嬬恋村ではこの災害とそこからの復興や家族の絆の大切さなどの教訓を「鎌原観音堂石段のものがたり」のアニメーション(詳しくはこちら)として、未来へ語りつぐ取り組みを行なっている。
西暦1889年(明治22年)
11に分かれていた村が合併し、「嬬恋村」が誕生する。
西暦1902年(明治35年)
浅間山の裾野に広がる浅間高原は、国の直轄地だったが、村が払い下げを受ける。その後、一大別荘地を築き、また広大な高原野菜の畑を形成し、現在の浅間高原となる。
西暦1910年(明治43年)ごろ
群馬県はその名のとおり古来から「馬」の産地だったといわれ、農作業や荷物の運搬になくてはならない馬と家族同様だったといわれる。昭和30年ごろから農業の機械化が進み、その数は減っていった。
西暦1919年(大正8年)ごろ
奈良時代に発見された村内の硫黄鉱山が、江戸時代に火薬の原料とされ、その後化学工事業の原料となった大正時代以降に本格的に稼働し、長野県境に位置する「小串鉱山」、草津白根山麓の「吾妻鉱山」、そして「石津鉱山」の3鉱山が隆盛を極めた。全盛期の昭和35年には、村の人口が16,000人を記録し、後の嬬恋西小学校の小串分校なども開校したが、その後の1971年に鉱山は閉山し、閉校となった。
西暦1955年(昭和30年)ごろ
浅間山の噴火によって形成された土壌(火山灰土である黒ボク土)に、戦後の土地改良技術が合わさり、さらに農業技術の発達や国道の開通といった交通網の発達も相まって、キャベツの栽培が本格的に始まる。その後、50年以上に渡り出荷量日本一とも呼ばれる村になった。
西暦1971年(昭和46年)
JR吾妻線(当時は長野原線と呼ばれる)が長野原草津口駅から大前駅まで延伸開通した。特に羽根尾駅以西は旅客営業専用線路としての開通だった。かつては万座・鹿沢口駅まで上野発の特急列車が運行されていたが、現在は長野原草津口駅までに短縮。

花豆
標高700メートル以上の高地でのみ生産され、数ある豆の中で最も粒が大きい、最高級品。
村では「花インゲン」「おいらん豆」とも呼ばれ、直径3cm程の大きな豆が育つ。
様々なお土産品が特産品として販売されている。
トウモロコシ
昼夜間の温度差が大きい嬬恋村で自然の恵みをたっぷり受けたトウモロコシはみずみずしくて甘いと評判。
村内では白いトウモロコシなど、多くの品種が生産され、どれも実が詰まっていて、生で食べられる程甘くなっている。


ジャガイモ
バレイショ(馬鈴薯)とも呼ばれるジャガイモ。嬬恋村は、そんな
バレイショという呼び名の発祥の地とも言われ、優良種苗の供給を通じてバレイショ生産の安定と振興を図ることを目的とした国立の種苗管理センター嬬恋農場が設置される。
かつて嬬恋村でジャガイモからデンプン(片栗粉)をとり、それを熊よけの鈴を付けた馬で峠を越えて信州に運んでいた当時の様子から馬鈴薯(馬の鈴のいも)と言われるようになった。

AREAS IN TSUMAGOI
各エリアの特徴
「以外に広いぞ…?嬬恋村…!」
嬬恋村の面積337.6平方キロメートル。
ひとつの村といえどもエリアによって
様々な特徴をもっている。

OTHERS
そのほか
歴史を感じるスポットをご紹介
温泉や食など、嬬恋村で体験できる文化や
かつては硫黄鉱山として栄え
今ではノスタルジックな雰囲気を醸し出す
鉱山跡など、魅力はほかにも・・・?

硫黄鉱山
大正から昭和(1919年頃~1971年)にかけて、嬬恋村には3つの硫黄鉱山があり、日本の一大硫黄山地として栄えていました。
硫黄泉で有名な万座温泉の先、毛無峠の小串鉱山索道跡などに今もその歴史を垣間見ることができます。










